南部修太郎
1892-1936 大正-昭和時代前期の小説家。明治25年10月12日生まれ。慶大在学中から「三田文学」に翻訳や小説を発表し,卒業後同誌の編集主任をつとめる。大正5年「修道院の秋」で注目され,三田派の作家としておおくの作品を発表した。昭和11年6月22日死去。45歳。宮城県出身。作品はほかに「若き入獄者の手記」など。

wikipedia:南部修太郎

 五月のある晴(は)れた土曜(えう)日の夕方(がた)[#ルビの「がた」は底本では「かた」]だつた。いつになく元※(き)[#「气<丿」、U+6C15、24-1-2]のいい、明るい顏付(かほつき)で勤(つと)め先から帰(かへ)つて※[#「未」の「二」に代えて「三」、24-1-3]たM会社員(くわいしやゐん)の青木さんは、山の手(て)のある靜(しづ)かな裏通(うらとほ)りにある我家(わがや)の門口をはひると、今まで胸(むね)に包(つゝ)んでゐたうれしさを一時(じ)に吐(は)き出すやうにはしやいだ声(こゑ)で奧(おく)さんの名を呼(よ)んだ。と奧(おく)さんはびつくりした様(やう)子で小赱(はし)りにそこへ迎(むか)へ出て※[#「未」の「二」に代えて「三」、24-1-11]た。
「お帰(かへ)んなさい。――いつたいまあ何(なん)なの? いきなりそんな大きな声(こゑ)をなすつて……」
 さうたづねかけながら、奧(おく)さんは女学生(がくせい)らしさのまだ十分にぬけきらない若々(わか/\)しいひとみを青木さんに投(な)げかけた。
「いゝ事(こと)、素適(すてき)な事(こと)があるんだよ。」
 さう答(こた)へて玄関(げんくわん)にあがると、機嫌(きげん)[#ルビの「きげん」は底本では「きけん」]のいい時(とき)にするいつもの癖(くせ)で、青木さんは小柄(がら)[#ルビの「がら」は底本では「から」]な奧(おく)さんの體(からだ)を軽(かる)く引(ひ)き寄(よ)せながら、そのくちびるに短(みじか)い接(せつ)ぷんを與(あた)へた。
「まあ、何(なん)んでせう?」
 奧(おく)さんはたくましい青木さんの肩(かた)に片手(かたて)をかけたまゝこびるやうにその顏(かほ)を見(み)上げた。
「うむ、あれさ。あれをとうとう今日受(う)けとつて※[#「未」の「二」に代えて「三」、24-2-15]たんだよ。」
「あれつて?」
「ほら、あれさ。」
「ああ、わかつた。うれしいわね。――どんな番号(がう)だつて?」
「それがさ、馬※(「(鹿-比)の、まだれ右下の縦画二本を下に延ばし、左右にはらいを添える」、第4水準2-94-51)(ばか)によささうな番号(がう)なんだよ。――ちよつとお待(ま)ち……」
 さういひながら、玄関(げんくわん)つゞきの茶(ちや)の間(ま)へはひると、青木さんは紙(かみ)にくるんだ額面(がくめん)十円の△△債劵(さいけん)を背広(せびろ)[#ルビの「せびろ」は底本では「せひろ」]の内がくしから、如何(いか)にも大事(じ)さうに取(とり)出した。
「これなんだよ。――ほらね。ちの一万二千三百七十五号(がう)、何(なん)だかいゝ番号(がう)だらう?」
「ちの一万二千三百七十五号(がう)、さうね、ほんとにいゝ番号(がう)だわ。」
 奧(おく)さんは晴(は)れ晴(ば)[#ルビの「ば」は底本では「は」]れしくひとみを輝(かゞや)かしながら、暫(しば)らくその額面(がくめん)に眺(なが)め入つてゐた。
「何(なん)だかあたりさうね。」
「さうなんだ。僕(ぼく)はその番号(がう)を一目見(み)た時(とき)、直感的(ちよくかんてき)[#ルビの「ちよくかんてき」は底本では「ちよ かんてき」]にさう思(おも)つたね。」
 青木さんは興奮(こうふん)した声(こゑ)でさう相(あひ)づち打(う)つた。
「あたつたら、実際(じつさい)素適(すてき)だな。」
「素適(すてき)以上だわ。――一万二千三百……」
「……七十五号(がう)。第(だい)一、五がつくのなんて半端(ぱ)[#ルビの「ぱ」は底本では「は」]な処(とこ)がなくて馬※(「(鹿-比)の、まだれ右下の縦画二本を下に延ばし、左右にはらいを添える」、第4水準2-94-51)(ばか)にいいよ。」
「さうね。ちの一万二千……」
 青木さん夫婦(ふうふ)はこの頃(ごろ)[#ルビの「ごろ」は底本では「ころ」]にない張(は)りのある、明るい※持(きもち)[#「气<丿」、U+6C15、24-3-34]で、希望(きばう)と信頼(しんらい)の笑顏(えがほ)[#ルビの「えがほ」は底本では「えかほ」]を互(たがひ)にぢつと見交(みかは)し合つた。
 従兄妹(いとこ)同志(し)で恋(こひ)し合つて、青木さんの境遇(きやうぐう)にすれば多少(たせう)早過(はやす)ぎもしたのであつたが、互(たがひ)に思(おも)ひつめた若々(わか/\)しい熱情(ねつじやう)のまゝに思(おも)ひ切(き)つて結婚生活(けつこんせいくわつ)[#ルビの「けつこんせいくわつ」は底本では「けつこんせ くわつ」]にはいつた二人は、まる三年間(かん)を※(へ)[#「糸+(舎-口)」、24-3-42]たその頃(ころ)になつて、可成(な)りな生活難(せいくわつなん)にとらはれてしまつた。といふのは、少(せう)年時(じ)代に両親(しん)に死(し)に[#「死(し)に」は底本では「死(し)」]別(わか)れた一人つ子の青木さんは、僅(わづ)かなその遺産(ゐさん)でどうにか修学(しうがく)だけは済(す)ましたものの、全く無財産(むざいさん)の身(み)の上だつた。で、新婚生活(しんこんせいくわつ)は七十円足(た)[#ルビの「た」は底本では「あ」]らずの月給(きふ)で始(はじ)められたが、間(ま)もなく女の子が生れた上に、世間的(せけんてきな)な物價騰貴(ぶつかとうき)で、その後(ご)の暮(くら)しはだん/\苦(くる)しくなるばかりだつた。そしていつとなく青木さん夫婦(ふうふ)は、かつては夢(ゆめ)にも想像(さうざう)しなかつた質屋(しちや)の暖廉(のれん)くぐりさへ[#「暖廉(のれん)くぐりさへ」はママ]度重(たびかさ)ねずにはゐられなくなつてしまつた。
「いやだいやだ。僅(わづ)かな金で月々こんなみじめな[#「みじめな」は底本では「みじめた」]思(おも)ひをさせられるなんて……」
 月末(すゑ)が近(ちか)づくと、青木さんはいつも暗(くら)い顏付(かほつき)でそんな事(こと)をつぶやきながら、ため息(いき)づいたり、いらだつたりした。そしてそんな時(とき)、人のいい※(き)[#「气<丿」、U+6C15、24-4-19]の弱(よわ)い奧(おく)さんは何(なん)の詞(ことば)もなくたゞまぶたをうるませてゐるばかりだつた。
 相当(さうたう)な身柄(みがら)[#ルビの「みがら」は底本では「みから」]の家(いへ)に育(そだ)つただけに青木さん夫婦(ふうふ)は相方(さうはう)共に品のいい十人並(なみ)な容姿(ようし)の持主(もちぬし)で、善良(ぜんりやう)な性格(せいかく)ながらまた良家(りやうか)の子らしい、矜持(ぢ)と、幾(いく)らか見(み)えを張(は)るやうな※質(きしつ)[#「气<丿」、U+6C15、24-5-5]もそなへてゐた。で、世間眼(せけんがん)にすれば、どこにも生活(せいくわつ)に苦(くる)しんでゐるらしい様(やう)子は感(かん)じられないのであつたが、もとより切(き)りつめた、地道(ぢみち)[#ルビの「ぢみち」は底本では「ちみち」]な所帶持(しよたいもち)などには全くならされてゐない二人にとつては、それだけにその苦(くる)しみや不快(くわい)さが一そう深(ふか)かつた。とりわけ空想(さう)家(か)で何(なに)かの趣味道楽(しゆみだうらく)なしには生きられない青木さんにとつては、ただ金に追(お)はれてばかりゐるやうな、あくせくした日々の生活(せいくわつ)がむしろのろはしいくらゐだつた。しかし、月給(きふ)の上る見込(みこ)みもなかつたし、ボオナスも減(へ)るばかりの上に、質屋(しちや)や近(ちか)しい友達(だち)[#ルビの「だち」は底本では「たち」]からの融通(ゆうづう)[#ルビの「ゆうづう」は底本では「ゆうつう」]もさうさうきりなしとは行(ゆ)かなかつた。結局(けつきよく)、このまゝ暮(くら)し続(つゞ)けて行(ゆ)くとしたら? さう考(かんが)へた時(とき)、二人はせうさうをはげしい心に感(かん)じた。
「やつぱり金だ。少(すこ)しでも生活(せいくわつ)に余裕(よゆう)のつけられるやうな金が欲(ほ)しいな。」
 表面(へうめん)にこそ見(み)せなかつたが、青木さん夫婦(ふうふ)の頭(あたま)にはさういふ思(おも)ひがいつも一杯(ぱい)[#ルビの「ぱい」は底本では「はい」]だつた。
 そこへ突然(とつぜん)一つの誘惑(いうわく)として現(あら)はれたのが、政(せい)府発行(はつかう)の△△債劵(さいけん)を買(か)ふ事(こと)だつた。それはある日会社※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(くわいしやまは)りの勧誘員(くわんいうゐん)[#ルビの「くわんいうゐん」は底本では「くわんいう ん」]がすすめて行(い)つたものだつたが、額面(がくめん)十円一等(とう)二千円のあたりくじ二本を最高(さいかう)として額面(がくめん)倍増(ばいまし)の最低(さいてい)のあたりくじまで総計(そうけい)二千本、あたらずとも六分利付(りつき)で損(そん)なしといふやうな事(こと)が、可成(な)り空頼(たの)めな事(こと)ながら、一面(めん)空想(さう)家(か)の青木さんの※持(きもち)[#「气<丿」、U+6C15、24-6-19]を強(つよ)く刺(し)げきした。悲運(ひうん)な者(もの)にめぐつてくる時(とき)ならぬ福運(ふくうん)、そんな事(こと)までがしきりに考(かんが)へられた。そして、奧(おく)さんの熱(ねつ)心な賛成(さんせい)を得(え)た上で、苦(くる)しい内から漸(やうや)く工面(めん)して、非常(ひじやう)な期待(きたい)とともに買(か)ひ求(もと)めたのが、ちの一万二千三百七十五号(がう)といふたつた一枚(まい)の、その△△債劵(さいけん)なのであつた。
 背広(せびろ)[#ルビの「せびろ」は底本では「せひろ」]を軽(かる)いセルのひと衣にぬぎ換(かへ)て、青木さんが奧(おく)さんと一緒(しよ)につましやかな晩(ばん)さんを済(す)ましたのはもう八時(じ)近(ちか)くであつた。青木さんはすぐに縁(えん)の籐イスに身(み)を寄(よ)せて煙(たば)草をふかしながら、夕刊(かん)を読(よ)みはじめた。やがて台所(だいどころ)[#ルビの「だいどころ」は底本では「たいところ」]の片(かた)づけ物(もの)を済(す)ました奧(おく)さんは次(つぎ)の間(ま)に寢(ね)かしてある子供(ども)[#ルビの「ども」は底本では「とも」]の様(やう)子をちよつと見(み)てくると、また茶(ちや)の間(ま)へはいつて※[#「未」の「二」に代えて「三」、24-6-39]て、障(しやう)子近(ちか)くに引(ひ)きよせた電燈(でんとう)の下で針仕事(はりしごと)[#ルビの「はりしごと」は底本では「はりしこと」]にとりかゝつた。靜(しづ)かなよひで、どことはなしに青葉(は)の香(か)をにほはせたかぐはしい夜風(よかぜ)が庭(には)先から流(なが)れてくる。二人の間(あひだ)にはそのまま暫(しば)らく何(なん)の詞も交されなかつた。
「ほんとに※持(きもち)[#「气<丿」、U+6C15、24-6-46]のいゝ晩(ばん)だな。」
 間(ま)もなく夕刊(かん)を縁(えん)に投(な)げ出した青木さんはさうつぶやきながら、奧(おく)さんの方(はう)を振(ふ)り返(かへ)つた。
「ええ、ほんとにね……」
 奧(おく)さんは針(はり)の手(て)を休めて、靜(しづ)かに答(こた)へた。
 刹那(せつな)に、二人の口元には何(なん)とない微笑(びせう)が流(なが)れあつた。さつきまでの※持(きもち)[#「气<丿」、U+6C15、24-7-9]の興奮(こうふん)はいつとなくさめかかつてゐたが、それは心のどこかにまだほのかな明るさを投(な)げてゐた。そして二人は暗默(あんもく)の内にもお互(たがひ)が何物(なにもの)かの中にぴつたりとけあつてゐるやうな、その日頃(ごろ)[#ルビの「ごろ」は底本では「ころ」]にない甘い、しみじみした幸福(ふく)感(かん)をそれぞれに感(かん)じてゐた。言葉(ことば)はそれなりに途切(とぎ)[#ルビの「とぎ」は底本では「とき」]れて、青木さんは庭(には)の暗(くら)やみの方(はう)に眺(なが)め入り、奧(おく)さんは針(はり)の手(て)を再(ふたゝ)び動(うご)かしはじめた。
「でもね、あなた?」
 やがて奧(おく)さんはまた口を切(き)つた。
「何(なに)?」
「あれ、ほんとにあたるでせうか?」
「さあ、そりや分らない。すべては運命(うんめい)の神様(かみさま)の御意(ぎよい)のまゝなんだからな。」
 青木さんはちよつとさびしさうな表情(へうじやう)でいつた。
「だつて……」
「いや、だからさ。僕(ぼく)はやつぱりあたるものと信(しん)じるな。信(しん)じるだけでも、今の僕達(ぼくたち)には楽(たの)しいんだからね。ははははは……」
 青木さんはうつろな声(こゑ)で笑(わら)つた。[#「笑(わら)つた。」は底本では「笑(わら)つた」]
「ええ、そりやほんとにさうね。」
 奧(おく)さんは一心に針(はり)を動(うご)かしながら、うつ向いたままさういつた。
「でも、若(も)しほんとにあたつたら[#「あたつたら」は底本では「あつたら」]?
「そりやうれしいね。飛(と)びあがつて、※※(きちが)[#「气<丿」、U+6C15、24-7-42][#「二点しんにょう+麦」、24-7-42]ひのやうにおどりまはるかも知(し)れないよ。」
 青木さんの声(こゑ)は何(なん)となく上ずつてゐた。そして、わざとらしいはしやぎ方(かた)で身體(からだ)をゆすぶりながら笑(わら)つた。
「だがね、うれしいどころか、反対(はんたい)に凄(すご)くなりやしないか知(し)ら? 一等(とう)だと二千円――僕(ぼく)の二年分の給料(きふれう)以上のお金がいきなり懷に飛(と)びこんでくる……」
 そこで言葉(ことば)[#ルビの「ことば」は底本では「ことは」]を途切(とぎ)[#ルビの「とぎ」は底本では「とき」]つて、青木さんは不意(い)に眞顏(まがほ)[#ルビの「まがほ」は底本では「まかほ」]になりながら、ぢつと奧(おく)さんの顏(かほ)を見(み)詰めた。
「何(なん)だかこはいやうね。――さうさう、いつかあつたぢやないの? 千円かの無尽(むじん)にあたつて発狂(はつきやう)したといふおぢいさんが……」
「はははは、僕達(ぼくたち)はそんなに※(き)[#「气<丿」、U+6C15、24-8-14]が小さかあない。しかしいいな。今それだけのお金があつたら……」
「ほんとにさうね。あたしお借(か)りしてある方(かた)のを、一番にお返(かへ)ししたいわ。」
 奧(おく)さんは針(はり)の手(て)を無意識(むいしき)なやうに膝(ひざ)に休めて、ほの白んだ、硬張(は)つた顏(かほ)を青木さんの方(はう)に向けながら、眞劍(しんけん)な声(こゑ)でいつた。
「そりや無論(むろん)だね。」
 青木さんは強(つよ)く相(あひ)槌打(う)つた。
「それから、あなたどうなすつて?」
「さあ、ヴイクタアを買(か)ふね。武(たけ)井の持(も)つてるやうな……」
「ええ、ヴイクタアはいいわ。ずゐぶん欲(ほ)しがつてらつしやるんだから。――あたし、何(なに)にしようか知(し)ら?」
「君の欲(ほ)しいのはやつぱり着物(きもの)かな?」
「あら、着物(きもの)なんかいらなくつてよ。――さうね、あたしの今一番欲(ほ)しいのは上等(とう)の乳母車(ぐるま)よ。ほらキルビイさんのお宅(たく)にあるやうな。あたし※(れい)[#「晋」の「一/日」に代えて「麁-々」、U+4D21、24-8-39]子をあんなのに乘(の)せてやりたいわ。」
「しかし、乳母車(ぐるま)[#ルビの「ぐるま」は底本では「くるま」]なんてお安(やす)い御(ご)用さ。」[#「御(ご)用さ。」」は底本では「御(ご)用さ。」]
「それから、柳(やなぎ)のイスやテエブルを一組(くみ)と、茶(ちや)だんすのいいのを欲(ほ)しいわね。」[#「欲(ほ)しいわね。」」は底本では「欲(ほ)しいわね。」]
「さうださうだ。イスやテエブルは第(だい)一番だな。だが、さうなると、紅茶器(こうちやき)なんかの上等(とう)も欲(ほ)しくなる……」
「あら、それぢやきりがないわね。」
 奧(おく)さんは朗かな声(こゑ)で笑(わら)つた。
 そのまま暫(しば)らく詞(ことば)は途切(とぎ)[#ルビの「とぎ」は底本では「とき」]れた。青木さんも奧(おく)さんも明るい、楽(たの)しげな表情(へうじやう)で、身動(みうご)きもせずに考(かんが)へこんでゐた。
「でもね、美奈(みな)子。二千円あつたら、どうにか家(うち)が建(た)てられるかも知(し)れないよ。そしてそんな一つ一つの品物(もの)なんかよりも、考(かんが)へてみりや、その方(はう)がずつと根(こん)本的(てき)な事(こと)だと思(おも)ふ……」
「ああ、ほんとにさうだわ。幾(いく)ら道具(だうぐ)が立派(りつぱ)[#ルビの「りつぱ」は底本では「りつは」]だつたつて、こんな家(うち)ぢやあね……」
 奧(おく)さんはあたりを見(み)まはしながらさういつてやんちやらしくひよいと首(くび)をすくめた。
「で、建(た)てるとなると、やつぱり郊外(かうぐわい)ね。」
「うむ、そりやさうだとも。大井だの目黒(ぐろ)[#ルビの「ぐろ」は底本では「くろ」]だの。僕(ぼく)すきだな。あすこら辺(へん)のちよつと高(たか)みに、バンガロオ風(ふう)の家(うち)でも建(た)てられたら、どんなにいいか知(し)ら?」
「とても素適(すてき)だわ。」
 奧(おく)さんは高(たか)く声(こゑ)をはづませた。
「全く惡(わる)くないね。間数(まかず)はと? 僕(ぼく)の書斎(しよさい)兼(けん)用の客間(ま)に君の居間(ゐま)、食堂(しよくだう)に四疂(でふ)半ぐらゐの子供(ども)[#ルビの「ども」は底本では「とも」]部屋(べや)[#ルビの「べや」は底本では「へや」]が一つ、それで沢(たく)山だが、もう一つ余(よ)分な部屋(へや)が二階(かい)にでもあれば申分なしだね。そして庭(には)はなるたけ広(ひろ)くとつて芝生にする。花壇(だん)をこしらへる……」
「あたし、野菜畑(やさいばたけ)[#ルビの「やさいばたけ」は底本では「やさいはたけ」]も作(つく)りたいわ。」
「いいね。普通(ふつう)の野菜物(やさいもの)は無論(むろん)として、外(ほか)にトウモロコシだのトマトウだの、トマトウのとり立(た)てつて、ほんとにおいしいからな。」
「さうね。それからダリヤも思(おも)ひつ切(き)り植(うゑ)てみたいわ。」
「うむ、六七月頃(ころ)になると、それを切(きり)花にして客間(ま)に飾(かざ)る……」
「ああ、どんなに奇※(きれい)[#「晋」の「一/日」に代えて「麁-々」、U+4D21、25-3-28]でせう?」
 奧(おく)さんは黒未勝(くろみか)ちな、若々(わか/\)しいひとみを夢見(ゆめみ)るやうに見張(みは)りながら、晴(は)れやかにつぶやいた。
 言葉(ことば)[#ルビの「ことば」は底本では「ことは」]はまた暫(しば)らく途切(とぎ)[#ルビの「とぎ」は底本では「とき」]れた。と、程近(ほどちか)くのイギリス人の家(いへ)でいつとなく鳴(な)りはじめたピヤノの音(ね)が、その沈默(ちんもく)をくすぐるやうに間遠(まとほ)に聞(き)こえて※[#「未」の「二」に代えて「三」、25-3-36]た。それに聞(き)くともなく耳を傾(かたむ)けながら、青木さんは靜(しづか)に煙草(たばこ)をふかし、奧(おく)さんは針(はり)の手(て)を休めたまま、互(たがひ)にうつとりと今までの空想(さう)の跡(あと)を追(お)つてゐたが、その空想(さう)はなぜかだんだんに影(かげ)を薄(うす)めて行(い)つた。そして、二人の意識(いしき)の中にはたつた三間(ま)しかない古びた貸家(かしや)である自分の家(いへ)が、ほんとに猫(ねこ)の額(ひたひ)ほどの庭(には)が、やつとの思(おも)ひで古道具屋(だうぐや)から買(か)つて※[#「未」の「二」に代えて「三」、25-3-46]たただ一脚(きやく)のトイス[#「トイス」はママ]が、いや、あまりにもそれとかけ隔(へだ)たつたさういふみじめな現実(げんじつ)のすべてがうつすりとよみがへつて※[#「未」の「二」に代えて「三」、25-4-4]た。
「さうさう、それからねえ……」
 やがて青木さんはその冷やかな現実(げんじつ)の意識(いしき)を逃(のが)れようとするやうに、新(あら)たな空想(さう)をゑがきながら、奧(おく)さんを振返(ふるかへ)[#ルビの「ふるかへ」はママ]つた。
「何(なに)?」
「さうなつたら、何(なに)か小鳥も飼(か)はうぢやないか? カナリヤ、目白、[#「目白、」は底本では「目白」]いんこ……」
「ええ、それもいいわね」
 奧(おく)さんの声(こゑ)にはもう何(なん)となく張(は)りがなかつた。そして、そのままひざに視線(しせん)を落(おと)すと、思(おも)ひ出したやうにまた針(はり)の手(て)を動(うご)かし始(はじ)めた。
「しかし、いいな。若(も)しすべてがそんな風(ふう)に行(い)つたら、ほんとにどんなに楽(たの)しい、どんなに美(うつく)しい生活(せいくわつ)だか知(し)れないな。――一日でもいいから、たつた二日でもいいから……」
 青木さんはふと一人言(ごと)[#ルビの「ごと」は底本では「こと」]のやうにさうつぶやいて、軒(のき)先に見(み)える晴(は)れた夜(よ)空をぢつと見(み)上げた。が、さういふ空想(さう)の明るさとは反対(はんたい)に※持(きもち)[#「气<丿」、U+6C15、25-5-13]は妙(めう)に暗(くら)く沈(しづ)んで行(い)つた。
 奧(おく)さんは青木さんのさういふ※持(きもち)[#「气<丿」、U+6C15、25-5-14]をすぐに感(かん)じた。そして、青木さんの横顏(プロフイイル)に――夜(よ)やみの中に浮(うか)んでゐるくつきりした横顏(プロフイイル)にちらと視線(しせん)をそゝいだが、すぐに眼(め)をしばしばさせて、くちびるをかみながらまたうつ向いてしまつた。
「しかし、そりやさうとして、何(なん)とかくじがあたらないものかな? 今の僕達(ぼくたち)には何等(なんとう)だつて構(かま)はないんだ。ねえ、さうだらう?」
 青木さんは不意(い)に奧(おく)さんの方(はう)を見返(みかへ)つた。
「ええ。――ですけれど、もうそんな話(はな)しよしませう。あたし何(なん)だか……」
 奧(おく)さんはうつむいた侭(まゝ)いつた。
「どうしたの?」
「いいえね。幾(いく)ら思(おも)つてみても、そんな事(こと)、あたし達(たち)には駄(だ)目なんですもの……」
 奧(おく)さんはかすれたやうな声(こゑ)で答(こた)へながら、青木さんの顏(かほ)を見(み)上げた。
 そのせつ那(な)に、奧(おく)さんのまぶたに一杯(ぱい)[#ルビの「ぱい」は底本では「はい」]にじんでゐた涙(なみだ)にひよいと※(き)[#「气<丿」、U+6C15、25-6-8]がつくと、今まで何※(なにげ)[#「气<丿」、U+6C15、25-6-8][#ルビの「なにげ」は底本では「なにけ」]なさを装(よそほ)つてゐた青木さんの心は思(おも)はずよろめいた。青木さんはあわててイスから立(た)ち上つた。が、すすり泣(な)きはじめた奧(おく)さんの肩(かた)に手(て)をかけると、また心をとり直(なほ)しながら、力強(つよ)く、慰(なぐさ)めるやうにその耳元にささやいた。
「そ、そんな事(こと)考(かんが)へちやいけない。僕達(ぼくたち)はせめてさういふ夢(ゆめ)でも楽(たの)しんでゐたいぢやないか。――それにまた、思(おも)ひ掛(かけ)ない巡り合(あは)せで、人にはどんな好運(かううん)が向いて※[#「未」の「二」に代えて「三」、25-8-4]ないとも限(かぎ)らないからね……」
 ヽヽヽヽヽヽヽ
 それから半年ほどたつた時(とき)、ちの一万二千三百七十五号(がう)の△△債劵(さいけん)は仲買(なかがひ)[#ルビの「なかがひ」は底本では「なかかひ」]人を※(へ)[#「糸+(舎-口)」、25-8-9]て、ある田舍(なか)の大地主(ぢぬし)[#ルビの「ぢぬし」は底本では「ちぬし」]の手(て)に渡(わた)つてゐた。青木さん夫婦(ふうふ)は僅(わづ)かな金の融通(ゆうづう)[#ルビの「ゆうづう」は底本では「ゆうつう」]のために仕方(しかた)なく手離(てはな)したのであつたが、それが間(ま)もなく五等(とう)百円のくじにあたつた事(こと)は無論(むろん)知(し)るはずもなかつた。
―一四・四・一八―

底本:「旬刊 寫眞報知 第三巻第十二号」報知新聞社出版部

   1925(大正14)年4月25日発行

青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)より引用

yahoo知恵袋より引用

自分は大学で近代文学を専攻しているのですが、それとは関係なく最近麻雀にハマっています。
そこで単純に興味本位なんですが、近代文学作品で麻雀が登場する作品や麻雀を扱った作品知ってる方がいたら教えていただけないでしょうか。
ちなみに、阿佐田哲也作品については言うまでもないものなので、それ以外の方の作品でお願いします…
漱石の「満韓ところどころ」での大連での見聞記述が麻雀に言及した最初とされています。
実際に日本では、菊池寛といった文士達の集う神楽坂のカフェー・プランタンで盛隆をみたようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E9%9B%80

この間の事情については菊地や芥川の親友であり当事者でもある南部修太郎「麻雀を語る」に如実に記されています。ご一読ください。

なお、以下は青空文庫で読める作品の一部です。ご参考まで。

海野十三「赤耀館事件の真相」(昭和4年)

夢野久作「山羊髯編輯長」(昭和9年)

古川緑波「古川ロッパ昭和日記」(昭和11年)

織田作之助「土曜夫人」(昭和21年)

余談ですが、ここ数十年では、麻雀ものといえばまずは漫画の世界でしょう。
「フリテンくん」から始まったともいえますが、福本 伸行「アカギ ~闇に降り立った天才~」の登場はインパクトがありました。